先日、厚沢部町内に所在する「館町」という地名について、「名称の語源について教えてもらえませんか?」とのリファレンスがあった。
現在、厚沢部町で「館」に関連する地名は館町、南館町の2箇所だが、昭和35年の字名改正以前には大字館村があり、糠野、鷲ノ巣、ロクロバ、沼ノ沢、館ノ下、当路などの集落で構成されていた。現在でも当時の「大字館村」の範囲を指して「館地区」と呼称する。
で、問題は「館」という地名の由来。
弘化3(1846)年に檜山地域を訪れた松浦武四郎は館地区にも訪れ、記録(『三航蝦夷日誌』)を残している。武四郎は、まず館村の沿革に触れ、かつて「酋長」が居住していたとする。その時代には、檜山の伐採が盛んで、さらに金山もあったという。武四郎は、古い坑道(「古敷間歩」)や割場の跡を目撃したことを記している。
武四郎の記述した「酋長」の居住していた場所とは、現在の厚沢部町字新栄に所在し、現在は『国分館跡』とされ、北海道教育委員会の埋蔵文化財包蔵地としても登載されている。昭和45年に市立函館博物館の吉崎昌一らの調査により埋蔵文化財として認められた。この調査では陶磁器片を採集したとされるが、現在、これらの遺物の所在は確認できないし、現地には目視で確認できる遺構もない。
<国分館跡>
ところで、『国分館跡』という名称は、『北海道旧纂図絵巻七』(函館市中央図書館所蔵)が出典である。
『北海道旧纂図絵』(函館市中央図書館所蔵)は、松前廣長撰著、北見傳冶再案纂による。松前廣長所蔵の資料を元に北見傳冶が編纂したものと推測され、成立は19世紀後半と考えられる。内容は主に「和人地」の地誌である。
再案纂を行った北見傳冶は嘉永6年(1853)の『御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳』(松前町史編集室1974)によると「中書院」の家格であり、「正議隊」にも名を連ねている(『松前藩正義士文書』江差町史編集室1979)。
以下、『北海道旧纂図絵』中の『国分館』関連記事について、記載する。
『北海道旧纂図絵』17箇所の館を取り上げており、その14番目として「国分館」が記述される。
国分館の位置は「館村より牛の方三町」すなわち館村の南方約300mとされる。現在、「国分館」に比定されている埋蔵文化財包蔵地「国分館跡」(C-03-16)は、当時の館村の中心であった落合(現南館町)からは北北西の方角、直線距離で約3kmであり、一致しない。
文安四(1447)年4月、村上政儀の家臣であった館権太郎源頼重と、同じく政儀の家臣で頼重の弟である江三郎義盛によって築かれた。
冒頭の「文安四年四月」は「国分館」の築造年を示すと理解したい。
義盛は長禄三年(1459)六月二十六日に上ノ国で戦死する。
義盛の後は子(と思われる)義顕が継ぐ。
義顕は永正八年(1511)四月十六日に志海苔村(現函館市)における蝦夷との戦闘により死亡する。
義顕の後は弟の顕輝が継ぐが、永正十年(1513)六月二十七日、村上周防守政胤とともに松前大館で蝦夷と闘い、部下20名以上とともに戦死した。
顕輝には男子がいなかったため、江口氏は廃絶した。江口氏の子孫は江差の江口重右衛門であるという。
江口一族は、村上政儀の家臣として館村を拠点とした豪族だったようである。
長禄三年の初代義盛の戦死は、いわゆる「コシャマインの戦い」として知られる数年に及ぶ戦闘の一部あろう。
松前旧時記』(北海道大学附属図書館所蔵)によれば、永正八年四月十六日に宇須之岳、志濃利、与倉前の3館が蝦夷の攻撃を受け陥落、館主が自害する事件が起こっており、2代目義顕の戦死は、この戦闘によるものと考えられる。
3代目顕輝の戦死は、『新羅之記録』(北海道1969)、『福山秘府年暦部』(北海道庁1936)などに記される、蝦夷の大館攻撃によるものであろう。
この戦闘により、館主の相原季胤とともに、江口氏の主筋にあたる村上政儀も戦死した。
『北海道旧纂図絵』の記述を信用するなら、家督相続者を失い、主筋からの庇護も失ったことにより、江口氏は館主としての権力を失ったといえる。
冒頭に述べたリファレンスでは、以上のような内容を回答したのだが(もちろん、かなり要約して)、改めて道南の中世は謎が多いと感じた。