松岡進『中世城郭の縄張と空間』 |
本書は、近世城郭成立史として中世城郭を研究する視点の限界と、それを克服する手段を模索するプロセスを提示するものです。
前者は「杉山城問題」として知られる城郭の年代齟齬が大きなきっかけとなっています。
「杉山城問題」は、埼玉県嵐山町の杉山城の年代が考古学的調査によって、それまで16世紀後半頃の後北条氏との関わりが考えられていた年代観が否定され、16世紀初頭前後とされたことに端を発する問題です。
それまでの縄張り研究が城郭の型式学的な関係から築城主体やその年代に迫ることを研究重点としてきたことに対して、考古学や文献史学から疑問が提示されました。
中世城郭の不可逆なプロセス
筆者は、「「杉山城問題」は、縄張研究がいつまでも近世からさかのぼる視角を捨てられず、中世のものを中世の視点から捉える、という当然の手法を自らのものとできないでいたことに対する厳しい問いかけ」(p.220)と述べています。
中世城郭を構成する要素(虎口構造や郭の配置)から近世城郭との類似点を発見し、それらが総合的に多く配置されているほど、近世城郭に近いという位置づけを与えることや、それぞれの要素の配置から「武田氏系」や「後北条氏系」というような評価を行うことが果たして縄張研究に可能なのか、という問題意識から、本稿では、「火点をフルに活用したプランへの不可逆的な長い過程の中にそれを位置づけ、その背後にどのような軍事史的段階が存在するかを見通すことではないか」(p.221)と述べます。
軍事的な合理性と城郭
城郭研究は軍事的発達と不可分であることから、築城にあたっては当時の軍事的合理性が最優先されたと考えられがちです。
しかし、戦国期の「軍事力」の本質は、在地的な築城主体と広域に影響力を及ぼしうる大名勢力のような築城主体がそれぞれの都合を主張する中で成立するものです。
当時の軍事的合理性もそのような社会的なパワーバランスの中で営まれていたと考えることが当然のようです。
筆者は伊達政宗書状を引用し、築城地選定に際して「百姓・町人が嫌っている、ということが、大名にもそれに従う武将たちにも、築城できない合理的な理由として受け取られているのは間違いない」(p.65)と述べます。
また、当時の築城主体が「地下人」であること、それらの者が無秩序に築城し兵力が分散することを上杉景勝が戒める記録があることから、大名勢力の戦略的な要求と、在地勢力の自立的な築城がせめぎ合う状況を見出し、このような姿が戦国期の築城の本質的なあり方だったと述べています。
火点の集約
それでは、非常に多様性を持つ中世城郭の変遷を統合的に説明することは不可能なのかと思われます。
筆者は、中世城郭の変遷の背景には「限られた火力を最大限に活用する意図」があったとし、「この点は、体系全体の変動の基礎として、不可逆的と判断すべき」(p.207)と述べています。
このような火点集約の工夫が、東日本では「横矢掛かりの張り出し」として発達し、西日本では「土塁囲みの小郭」として発達したと推測しています。
そうした火点集約こそが不可逆なプロセスとして戦国期に進行したこと、火点集約を組み合わせた城郭群を統一的に地域に配置することが近世城郭への移行プロセスだったのではないかと推測しています。
「上からの既成の空間を緊密に構造化していくことこそが、近世への移行の前提をなしていたのではないか」(p.212)と述べられています。
最後に
本書は、丹念に続けられた現地調査の結果が惜しげもなく披露されています。
実際に城跡をあるいて縄張り図を作成され、その成果にもとづいた議論が展開され高い説得力があります。
その一方で、筆者自身が「縄張り調査は帰納法的」というように、延々と縄張り図の解説が続くことや、単行本という版型なのでやむを得ないことでありますが、肝心の縄張り図がとても小さいことが、読むものに忍耐力を要求します(縄張り図を作成する忍耐力には比べるべくもありませんが)。
図の掲載方法などが改善されると非常にありがたいことだと思いますし、土のお城ファンが増えるのではないでしょうか?