GISが解き明かす!!土方歳三の防衛戦略 |
明治2年(1868)、鶉山道を越えて箱館五稜郭を目指す新政府軍との戦いに備えて、ここを守備した土方歳三によって構築されたものとされています。
土方がどのような戦略でこの地を防衛しようとしたのか、GRASS GISとQGISを利用して解き明かしてみたいと思います。
二股台場の位置 *背景地図はOpenStreetMapを使用しました。
(c OpenStreetMap contributors , CC BY-SA2.0)
なお、塹壕跡の位置は『二股口台場』(毛利剛,2012)に記載された座標データを使用させていただきました。
特に断らない限り、背景地図は国土地地理院発行基盤地図情報、標高データは国土地理院発行基盤地図情報数値標高モデル(10mメッシュ)を使用しました。
二股台場の地形
二股台場は大野川の支流二股沢川の左岸に位置します。
南につきだした尾根上に十数箇所の塹壕が確認されています。
(二股台場周辺の傾斜区分図)
尾根の鞍部を当時の江差〜箱館を結ぶ主要道路であった「鶉山道」が通っています。
土方は「鶉山道」を封殺するように、南北の尾根上に塹壕を配置したのでした。
(二股台場を通過する鶉山道)
鶉山道の封殺
二股台場の塹壕の配置を模式的に表すと以下のようになります。
新政府軍が箱館を目指すための最短ルートが江差山道です。
これを封殺するために「陣地1」が設けられました。
特に鶉山道南側には「イナズマ型塹壕」として知られる、二股台場中もっとも長いF1塹壕が構築され、強力に防御されています。
鶉山道の南北に配置されたF1とF12が陣地1を構成し、最短ルートの鶉山道を遮断したのでした。
このことは、F1とF12の可視領域を調べることでより明らかになります。
F1塹壕(イナズマ型塹壕)とF12塹壕の可視領域
F1塹壕とF12塹壕の可視領域は、二股台場から二股川対岸の「新政府軍陣地」にいたる鶉山道の全ての領域をカバーしています。
鶉山道の両脇に設けられたこの塹壕が鶉山道守備の最重要な機能をになったことは、鶉山道との位置関係から容易に想像できることですが、可視領域からもこのことを確認することができます。
(F1,F12塹壕可視領域)
F2,3塹壕の可視領域
陣地1(F1,F12塹壕)からの強力な抵抗を受けた敵は、台場山を南側に回りこんで突破を狙うことでしょう。
二股台場南側の西面は比較的緩やかな傾斜となっていますから、ここが次なる目標とされそうです。
F2塹壕とF3塹壕は、尾根を南側から回りこもうとする敵に備えたものと考えられます。
尾根を迂回して南下する敵を発見したなら、F2,F3塹壕の兵士たちは尾根上から猛烈な側面攻撃を加えたはずです。
F2,F3塹壕の可視領域は尾根の西面全域をカバーし、南側から尾根を迂回する敵を見逃すことがないように構築されています。
(F2,3塹壕可視領域)
尾根の南側を押さえるF4塹壕
F2塹壕やF3塹壕からの攻撃をかわしてさらに尾根の南端に到達した敵兵に対しては、F4塹壕が最後の砦として機能したことでしょう。
F4塹壕の可視領域は尾根の南側全面をカバーしています。
(F4塹壕可視領域)
鶉山道北側に比べて傾斜のゆるい尾根の南側を防御し、絶対に敵を背後に回らせないための備えが、F2,3,4塹壕で構成される「陣地2」だったと考えられます。
二股台場の「横矢掛け」
日本のお城の守りの基本は、「横矢掛け」とよばれる構造です。
攻め寄せてくる敵に対して2方向以上から攻撃を仕掛けることができるようにする仕組みです。
この「横矢掛け」の仕組みが二股台場にもみられます。
F5,6,7,8,9塹壕(陣地3)と横矢掛け
鶉山道を通って二股台場を突破しようとする敵に対しては、陣地1(F1,12塹壕)が防戦にあたることはすでに説明しました。
二股台場では陣地1に対して攻撃を加える敵に対して、陣地3(F5,6,7,8,9塹壕)が援護射撃(「横矢掛け」)を加えることができます。
敵が陣地1に対して正面攻撃をしかければ陣地3から側面射撃を受けますし、攻撃を転じて陣地3へ向かえば陣地1から側面または背後から攻撃を受けてしまいます。
常に側面攻撃を受けてしまう「横矢掛け」は、攻撃側にとって、きわめてやっかいな構造なのです。
F5,6,7,8,9塹壕(陣地3)の可視領域
F5〜9塹壕(陣地3)の可視領域は、二股台場南側の尾根全体に広がっています。
先に説明したように、鶉山道を突破しようとF1,12塹壕と交戦中の敵は、まったく無防備な側面をF5〜9塹壕にさらすことになります。
(F5〜9塹壕可視領域)
二股台場の防御構想と「横矢掛け」
また、尾根の南側を迂回しようとする敵に対する備えとしてF2〜4塹壕(陣地2)がつくられたことを説明しましたが、F5〜9塹壕は、これらの敵にも背面から攻撃を加えることができます。
当時の主力小銃であるミニエー銃の有効射程は300m程度とされていますから、F5〜9塹壕(陣地3)からの攻撃は、F2〜4塹壕(陣地2)を攻撃する敵に対して十分な脅威となったはずです。
F2〜4塹壕のある鶉山道南側は傾斜が緩やかで攻撃目標になりやすい部分です。
しかし、二股台場では南側の尾根を攻撃させることで、敵に陣地3に対して背を向けさせ、背後からの強烈な集中砲火を浴びせようと意図したと考えられます。
尾根を回りこもうとする敵に対して、尾根上からの射撃と背後からの射撃により一気に殲滅しようとする意図が感じられます。
あえて攻めやすい箇所を残して防御目標を絞るということは、近世城郭の正面出入り口などにみられる定石的な手法です。
極めて理にかなった防御構想といえるでしょう。
F10〜14塹壕(陣地4)の役割
尾根の北側にあるF10〜14塹壕(陣地4)は直接鶉山道を視認することが難しい位置関係にあります。
これらの塹壕には次の2つの意味があったと考えられます。
(1)北側を大きく迂回して来る敵に対する備え
(2)二股川対岸の敵陣に対する威圧や偵察
可視領域を調べると、F10〜14塹壕(陣地4)からは鶉山道がほとんど見通せないことに気づきます。
北側へ延びる尾根や対岸の段丘は非常によく見通すことができます。
敵が最初に姿を表すとすれば、二股川対岸の段丘平坦面ですから、この位置からは敵陣の動きが手に取るようにわかったはずです。
また、二股川対岸の段丘平坦面までの直線距離は300〜400mあります。
小銃の有効射程の限界付近ですが、急な崖を下って二股台場を目指さなければならない敵にとって、至近距離に着弾する銃弾の恐怖感は相当なものです。
牽制射撃としての効果は十分だったと考えられます。
(F10〜14塹壕可視領域)
土方歳三の防衛戦略
以上見てきたように、土方歳三が築いた二股台場は地形や当時の兵器の特徴をよく理解した合理的な構造であることがわかります。
単に「険しい山に陣地を築いた」というだけではなく、複数の塹壕が巧みに組み合わされることにより。背後に回りこまれない工夫、「横矢掛け」の工夫がほどこされています。
鶉山道北側の尾根は非常に急峻な岩山で、ここを西側から攻撃することはもちろん、登ることも不可能です。
自然と敵の攻撃は鶉山道南側の尾根に集中することになります。
(鶉山道北側の岩壁)
しかし、尾根の南側には幾重にも塹壕が築かれ、一見攻略しやすいように見えて決して突破されないように工夫されています。
さらに、F5〜9塹壕(陣地3)からの強烈な「横矢」が掛けられました。
二股台場は、新式のライフル銃の特性を活かした散開的な塹壕陣地と、近世城郭の伝統的な防御手法である「横矢掛け」を組み合わせた、極めて合理的な野戦築城だと評価できると思います。
土方歳三は、二股台場の巧みな野戦築城を活かし、明治2年4月11日の布陣から4月29日の退却まで、数倍の兵力を持つ新政府軍の攻撃を2度にわたって跳ね返したのでした。
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