保谷徹「施条銃段階の軍事技術と戊辰戦争」 |
幕末維新期の銃器は本質的には近代戦で使用される銃器と変わらなくなっていることも殺人兵器として見えてしまうのかもしれません。
とはいえ、幕末維新期の城郭を調査している立場としては最低限度のことを知っておく必要があります。
ちなみに、「施条銃」というのはライフル銃のことです。
銃器に全く詳しくない方はそもそも「ライフル銃」が何かということさえも知らないと思います。
私も、知りませんでした。
「施条銃」(ライフル銃)とは
「施条」という表現は見た目の表現としてかなり的確だと思います。
銃身内部に「条」を「施」す、つまり、溝が切ってある銃を「施条銃」といいます。
銃身内にらせん状の溝が切ってあり、この溝に沿って弾丸が回転しながら射出される仕組みです。
回転する弾丸は安定した軌道を描き、回転しない弾丸に比べると着弾のばらつきが飛躍的に小さくなります。
なお、「施条銃」に対しては「滑腔(かっこう)銃」という用語が対になって使用されます。
滑腔銃、文字通り銃身内部がなめらかで、施条が施されていないものです。
弾丸は発射ごとに異なる回転をしながら飛んでいくので、施条銃と比較して着弾にばらつきが生じます。
幕末維新期は世界的に「滑腔銃」から「施条銃」へと銃が大きく変化し、軍事技術のみならず軍隊のあり方や組織のあり方に大きな影響を与えたようです。
本書は、そのような武器の変化がどのような軍事技術の変化をもたらしたのかを検討します。
施条銃の発明と日本への導入
施条銃の発明は1840年代だそうです。
「ミニエ式」と呼ばれる普及型の施条銃が発明されたことにより、施条銃がヨーロッパの軍隊に取り入れられていきました。。
この「ミニエ式」が日本に導入され戊辰戦争の主力兵器となっていきます。
NHK大河ドラマの『八重の桜』で主人公の八重さんが撃っているのは後装式の連発銃ですから、「ミニエ式」よりもさらに後発の新型兵器と言えます。
ミニエ式が日本に紹介されたのは安政年間頃(1850年代)だそうです。
この頃にはオランダ軍がミニエ式を制式採用していたことから、日本でもオランダ式の調練が行われたそうです。
ミニエ式導入によるオランダ軍の教練書改正が1861年で、日本ではそれから遅れること3年の1864年に大鳥圭介がこれを翻訳して調練に採用しています。
施条銃の命中精度
施条銃が銃火器の主流となっていく背景には、その命中精度の高さがあります。
本書では「ゲベール銃」と「ミニエ銃」の命中率の比較実験結果を掲載しています。
それによると、例えば距離200mでの標的からのずれは
ゲベール銃=1.48m
ミニエ銃=0.15m
距離400mでは
ゲベール銃=9.40m
ミニエ銃=0.40m
となっています。
ゲベール銃では200mも離れると狙って標的に当てることは難しくなりますが、ミニエ銃では400mでも十分に有効射程であることがわかります。
ちなみに、「ゲベール銃」は洋式銃の一種ですが、滑腔銃であり、兵器としての本質は伝統的な火縄銃と大きな違いはないと一般的に考えられています。
「施条銃」の導入による戦術の変化
滑腔銃時代には遠距離からの狙撃は現実的な戦術ではなく、銃は密集隊形から斉射するものでした。
一種の弾幕を張ることより、打撃を与えるように運用されていました。
施条銃の登場により、新たな戦術である「散兵戦術」が生まれます。
当時の教練書(「英国式歩兵練法」)では、散兵は互いに4.5mから6.75mの距離をおき、物陰に隠れたり、伏せたりする方法が紹介されています。
このような「散兵戦術」は、密集隊形の時と比べて自立的独立的な判断や運動が求められることとなったようです。
また、個々の兵士の「精神の練磨」も要求されるようになったといいます。
確かに、散兵戦術自体が兵士の逃亡を招きやすそうな戦術ですから、精神面での教育も重要になるのかもしれません。
施条銃を用いた戦闘の実際
本書では土佐藩の記録をもとにした実際の戦闘事例が紹介されています。
意訳してみました。
【会津攻略戦_白河口】
八番隊と胡蝶隊が左の山裾へ向かい、残りの隊は全て右の山裾に散開した。
砲隊が正面から臼砲で攻撃した。
敵が左右の陣地を放棄して正面中央で防戦したので、三方から攻撃し制圧した。
【会津攻略戦_母成峠】
敵が銃撃を加えてきたので、こちらも散開して進軍した。
敵は大砲二門で激しく攻撃を加えてくる。
また、胸壁を3箇所に築き、防戦に努めている。
谷を隔てて互いに銃を放つ。
その距離600m。
我が兵は茅原に散開し、また岩に隠れて戦う。
しかし、兵員数に比べて隠れる場所が少ないため損害が大きく、敵に打撃を与えることができない。
どちらの戦いも、散兵戦術+砲兵の支援という組み合わせで戦われている、と執筆者の保谷さんの解説が加えられています。
施条銃のもたらした影響
施条銃は「散兵戦術」という新たな戦術を生み出しました。
このことは、軍隊という組織に大きな変化をもたらしたようです。
特に、個々の兵士の「精神の練磨」が求められるとする教練書の記載からは、近代国家における学校教育のあり方などにも影響を与えた可能性が考えられます。
密集から散兵への変化が軍隊をどのように変えたのか、さらにそれらが社会にどのような影響を与えたのかを具体的に明らかにすることは今後の課題であろうと思います。
考古学の面から言えば、築城や陣地構築の技術、城郭の選地にどのような影響を与えたのか、ということが当面の課題となります。
一般的には、戊辰箱館戦争における松前藩の戦い方は滑腔銃を前提にした旧式の戦い方であり、そのために旧幕府軍に敗北したと考えられているようです。
私自身も、過去にそのように述べたことがあります。
(館城攻防戦にみる滑腔銃とライフル銃の性能差)
しかし、本当にそうだったのか、松前藩がどのような戦い方をイメージしてお城や陣屋をつくったのか、そういうことを考古学的に検証した事例はないように思われます。
松前藩が戊辰戦争さなかの明治元年9月に築城した館城は、基本的には和式の城郭と考えられます。
しかし、本当に和式城郭として考えて良いのか、まだ十分な検討がなされていません。
保谷徹2013「施条銃段階の軍事技術と戊辰戦争」『戊辰戦争の史料学』箱石大編 勉誠出版社