鈴木琢也「北海道における3〜9世紀の土壙墓と末期古墳」『北方文化研究』第10号 |
ここ数年の鈴木さんの興味関心は、8世紀初頭頃の大きな文化変容、すなわち伝統的な続縄文文化から本州北部との強い関わりを持つ擦文文化への移行の実態に向けられているように思う。
本稿は、2011年の「北海道における7〜9世紀の土器の特性と器種組成様式」(『北海道開拓記念館研究紀要』第39号)の続編的な位置づけだろう。
3〜9世紀、土器文化では後北式、北大式、擦文式(前半)の3つの時期にわたる北海道内で検出された土壙墓について、多くの属性について細かく整理されている。
土壙墓と末期古墳
8世紀初頭頃に北海道内の土壙墓には、東北地方北部の末期古墳の影響が見られ、主体部の長軸が長くなり、掘込みが浅くなる特徴が現れる。
ただし、袋状ピットや配石、礫の配置、杭状小柱穴が附属すること、埋葬姿勢が屈葬であることなどは、それ以前の土壙墓の伝統を受け継ぐものとしている。
これに対して末期古墳は、東北地方北部の末期古墳と同様、墳丘や周溝「四辺埋め込み式の木槨(木棺)」を有することから、「3〜7世紀の土壙墓にみられる続縄文文化の土壙墓の特性を受け継ぐものではなく、東北地方の末期古墳と同様の特性をもつ新たな墳墓の形態である」と述べたうえで、
「北海道では、8世紀初頭を画期として東北地方北部の末期古墳と同様の特性をもつ末期古墳と、続縄文文化の土壙墓の特性に加え末期古墳の特性を受け入れた土壙墓の二種類の墳墓の形態が存在する」
とし、
「北海道の末期古墳は、続縄文文化の集団に連なる北海道在地の集団が築造したものではなく、末期古墳を築造する技術をもつ東北地方北部の集団が北海道に移住し築造したもの」」
結論づける。
在地集団と移住集団
本稿の大きな特徴は、8世紀初頭頃の北海道において、続縄文文化以来の伝統的な土壙墓を造営する在地集団と、末期古墳を築造する東北地方北部から移住集団の2種類の人間集団がいたことを示唆した点であろう。
これまでの議論はどちらかといえば、択一論的というか、擦文文化の担い手の出自を東北地方北部に求めるか、在地の集団に求めるかという議論だったように思う。
鈴木論文では、墓制の変化からは2つの集団の存在を読み取れると解釈し、択一論的な議論から脱して新たな視点が提示された。
上記のような視点が土器研究にフィードバックされていくと擦文文化の本質をさらに明らかにできるのではないかと期待する。