郷土資料のパブリックドメイン化とオープンソース |
FOSS4G Advent Calendar2012から来られた方、ごめんなさい。
本稿で考えてみたいのは、博物館や図書館の所蔵資料をもっと自由に使えるような環境が整わないだろうか?ということ。
自分が所有する知的財産を公開して社会が自由に使えるようにすることは、ソフトウェアの世界では、フリーオープンソースソフトウェアとして定着している。
私自身、その恩恵を深く受けているので、自分が所属する博物館や図書館の世界でもそういう動きが広がって欲しいという想いをつづってみた。
郷土資料の「パブリックドメイン」化への期待である。
博物館や図書館所蔵資料の掲載許可
博物館や図書館の所蔵資料の写真やテキストを出版物に掲載する場合、多くは資料の所蔵機関から掲載許可を受けることになる。
掲載許可を受けるのは何となく当たり前に感じていたが、そういえばこの種の掲載許可はどういう権限で行われているのだろうか?
複製や出版を制限できるとすれば、その根拠はなんなのだろうか?
何のため、誰のための掲載許可なのだろうか?
もしかしたら、掲載許可が郷土資料の自由な利用の妨げになっているんじゃないか?
以上のような疑問を前提に、郷土資料の「パブリックドメイン」化を提案したい。
反論とか資料掲載許可事務に関わっている人の意見を聞いてみたい。
博物館や図書館の資料掲載許可の条件
ウェブで公開されている掲載許可申請書をいくつか探したところ、出版物等への掲載許可条件は下記のようなものがあった。
(1)出典の明記
沖縄県立図書館、北海道大学附属図書館、一橋大学附属図書館、筑波大学附属図書館、国文学研究資料館、大阪府立中之島図書館、函館市中央図書館、北海道立中央図書、長崎大学附属図書館、佐賀県立図書館、滑川市立博物館、米沢市上杉博物館、下妻市ふるさと博物館、中津川市鉱物博物館
(2)申請者が著作権等に関する責任を負うこと
沖縄県立図書館、北海道大学附属図書館、一橋大学附属図書館、筑波大学附属図書館、大阪府立中之島図書館、鹿児島市市民図書館、長崎県立図書館、佐賀県立図書館、中津川市鉱物博物館
(3)刊行物等の寄贈
沖縄県立図書館、北海道大学附属図書館、一橋大学附属図書館、筑波大学附属図書館、国文学研究資料館、大阪府立中之島図書館、函館市中央図書館、鹿児島市市民図書館、長崎大学附属図書館、佐賀県立図書館、滑川市立博物館、米沢市上杉博物館、下妻市ふるさと博物館、中津川市鉱物博物館
(4)教育・研究・調査のために限定
筑波大学附属図書館
(5)掲載料金の徴収
国文学研究資料館、長崎大学附属図書館(有料頒布の場合)、明治大学博物館
出典の明記と、著作権等の責任を負うこと、刊行物の寄贈はほとんどの所蔵機関が許可条件としていた。
掲載目的を教育・研究・調査に限定する機関が1つ、掲載料金の徴収は3館あった。
許可条件はそれほど厳しいものではない。
常識にしたがっていれば問題になることはないだろう。
郷土資料の複製や出版を許可(不許可)する権限はあるのか?
すぐに思いつくのは著作権法の公表権(18条)とか複製権(21条)とか出版権(79条他)なのだけれど、著作権法はそもそも著作権者がいることが前提だ。
多くの場合、郷土資料の著作権は消滅しているし、資料を所有している機関が著作権者ではある場合は少ない。
所有権があるからといって、複製・出版権が独占できるということでもなさそうだ。
「古文書の無断掲載」というタイトルで寄せられたこの相談は、個人が所有する古文書を公的機関が撮影して市史に掲載したことに対して抗議したものだが、法的には所有権と著作権は別物のようである。
気の毒だが、相談者の主張は認められないようだ。
「顔真卿自書建中告身帖事件」
判例としては、こちらが参考になる。
「顔真卿自書建中告身帖事件(最高裁昭和59年1月20日判決)」
「顔真卿自書建中告身帖事件」判決文全文
判決文では、
「著作権消滅後に第三者が有体物としての美術の著作物の現作品に対する排他的支配権能をおかすことなく原作品の著作物の面を利用したとしても、右行為は、原作品の所有権を侵害するものではないというべきである」
とされている。
要するに、郷土資料のように著作権が消滅しているケースでは、複製権や出版権のような権利は所有権に含まれないと明言されている。
なお、写真撮影やコピーについての許可はまた別の話である。
写真撮影やコピーの場合は、現物の資料を直接利用することとなるので、そういう行為を許可するかしないかを決めるのは所有者の判断だ。
「顔真卿自書建中告身帖事件」の判例がいう「有体物の面に対する排他的支配権能」に属する事柄だろう。
展示中の郷土資料の写真を撮影して原稿料を稼ぐ
こういうケースも考えられる。
(1)博物館に展示してある縄文土器を写真撮影して雑誌に掲載して原稿料をもらう
(2)それを所有者の博物館に無許可で行う
上のようなことを自分の勤務する博物館で行われたら、確かにいやな気分になる。
しかし、「顔真卿自書建中告身帖事件」の判例がいうように、たとえ無断で行われたものだとしても、法律は写真の出版や複製で原稿料を稼ぐことを否定することはできないのではないか。
もちろん、施設内での「写真撮影」という行為そのものを禁じることは可能だ。
しかし、いったん撮影された写真の再利用や二次配付を拒む権利は所有者にはないということになる。
法的にどうか、ということとは別に、博物館の考古資料や図書館の古文書などは「共有財産」として収蔵されているのだから、その財産を破損しない範囲で利用して、お金を儲けたり、楽しんだりしてよいのではないかという考え方もできる。
博物館の展示品を写真撮影してネットに流す行為やお金を稼ぐことは、良くないことのように思えてしまうけれど、そもそも共有財産なのだから、好きなように使ってよいのではないか。
商業的であろうと学術的であろうと、所蔵資料を社会にどんどん流通させることが博物館や図書館の役割ではないか、とも考えられる。
まつきあゆむとパブリックドメイン
積極的に知的財産権を放棄してしまったものにパブリックドメインとかオープンソースという考え方がある。
まつきあゆむというロックミュージシャンがいる。
(著作権は自分で決める 音楽家・まつきあゆむの方法論)
著作権とか結構気にしている人なのだけれど、2012年11月1日にリリースされた「Tale of Sena」という楽曲は購入した人が自由に二次利用して良いという、パブリックドメインのような形で提供されている
(自身のブログでは、「もしCMや映画で使うときはちょっとは払ってくださいね」とは言っている)。
楽曲自体は購入することになるので、「フリー(無料)じゃないけどフリー(自由)」という不思議なスタンスだ。
かと思うと、毎週月曜日には楽曲を無料で公開している(新曲の嵐)。
こちらは無料でダウンロードできる楽曲もあるのだけれど、これらは「フリー(無料)だけれどフリー(自由)じゃない」だ(と思う)。
まつきあゆむがどのような戦略で著作権の使い分けをしているのかわからないが、楽曲のパブリックドメイン化や無料配付は、単に営業戦略ということだけではないようにも感じる。
「フリー(無料)」と「フリー(自由)」を使い分けて、自分の楽曲を広く流通させることそのものを目的としているような節がある。
知的財産を広く流通させたい、というのは次に紹介するフリーオープンソフトウェアの精神と根底でつながりそうだ。
「フリー」と「オープン」、「無料」と「自由」
オープンソースといえば、コンピュータープログラムのソースコードが公開されていたり、改変や再配布ができることを指しており、もっぱらIT用語として使われている。
ソフトウェアのような明らかに知的財産であるものの著作権を放棄してしまう、というのは一見不合理に見える。
ソフトウェアの場合、多くの人の手で改良されることでがソフトウェアの価値を高めるので、作成者が囲い込んでしまうよりも結果的に価値の高いソフトウェアが流通し、元の作成者もその恩恵を受けることができるという発想が根本にあるのかもしれない。
「フリー」や「オープン」の概念ついては、2日前のFOSS4G Advent Calendar 2012の記事、「OSGeo/FOSS4G周辺における「自由」「オープン」「Free」」というエントリーで清野さんが整理してくれている。
フリーオーブンソースの地理情報システムとOSGeo財団
私が利用している「Quantum GIS」や「GRASS GIS」というGISソフトもフリーオープンソースのソフトウェアだ。
これらは、FOSS4G(Free Open Source Software forGeospatial)と呼ばれる地理空間分野のためのフリーオープンソフトウェア群の一部だ。
マニュアルなどが整備された商用ソフトに比べると不便もあるかもしれないが、OSGeo財団という組織が中心となって、開発者・利用者がコミュニティを形成して、ソフトウェアの改善やトラブルの解決方法、マニュアルなどを整備している。
OSGeo財団は全てのコミュニティを統括しているわけではなく、様々なプロジェクトとコミュニティがゆるやかにつながって、OSGeo財団によって交流の機会を得ている、というのが実態に近いようだ。
誰でも利用できること、誰でも参加できるコミュニティがあることによって、ソフトウェアの改良や利用のノウハウが蓄積されていく大切な要因になっている。
ウェブ上に蓄積された情報を元に、初心者でもGISソフトを活用していける環境が整ってきていることは、フリーオープンのGISソフトウェア=FOSS4Gソフトウェア群とコミュニティの功績が大きい。
私自身が、初心者ながら独学でGISソフトウェアを使えるようになれたのは、FOSS4Gソフトウェア群と、そのコミュニティのおかげだとつくづく実感している。
商用ソフトウェアだったら、そもそも金額が高すぎて使えないし、独学では使い方を学べなかったのと思う。
「オープン」な環境は、組織力や経済力にとぼしい個人に力を与えてくれる。
郷土資料のパブリックドメイン化
博物館や図書館の所蔵資料に話を戻すと、郷土資料も世間に流通して新たな価値を産みだすオープンソースソフトウェアのような性格を持っているのではないだろうか。
資料そのものに価値があるのではなく、人間が意味を与えて初めて価値を持つという性格があるからだ。
それならば、資料が傷まないことを前提にどんどん流通させて、新しい価値を産み出すように仕向けることが、博物館や図書館の本来の仕事ではないのか?と提案したい。
流通させることによって新たな価値を産みだしてもらうことは、資料を所蔵する博物館や図書館にもメリットがある。
冒頭で紹介したように、博物館や図書館では所蔵資料の複写や出版を許可制にしているところが多い。
法的なことはともかく、博物館や図書館の所蔵資料が無秩序に流通したところで困る人は誰もいないのではないだろか。
博物館や図書館は著作権の消滅した所蔵資料をパブリックドメインとして公開するという姿勢を原則にすることはできないのだろうか。
「価値がある」資料と「価値を産み出す」資料
郷土資料のパブリックドメイン化が進まないのは、所蔵資料に「価値がある」ことは理解できても、「価値を産み出す」という実感が薄いことも理由の一つかもしれない。
「価値がある」資料は希少性を維持するために、流通量を制限するインセンティブが働くのではないだろうか。
価値のある「お宝資料」を普段は隠匿しておいて、ここぞというときに効果的にアピールしたい、という気持ちは理解できる。
また、資料の価値について、所蔵機関の認識と世間の認識とのずれが生じることも、無秩序な資料の流通を規制する必要性の一つと考えられるかもしれない。
「資料が一人歩きする」ことには確かに一定のリスクがある。
美しい縄文土器や陶磁器が下手な写真で世間に出回ることは耐えがたいことだし、資料に間違った注釈がついて流布するのは困る。
しかし、資料の価値をコントロールするのが博物館や図書館の仕事なのか?と問われたら、それは違うような気がする。
資料を積極的に流通させることによってリスクを超えた大きなメリットを産み出す可能性を追求することが、博物館本来のあり方ではないだろうか。
オープンソースの保管庫としての博物館や図書館
だとすると、博物館や図書館のやるべきことは明確だ。
先のOSGeo財団の取り組みがモデルとなる。
(1)より利用しやすい形で資料を提供すること
(2)誰でも参加できるコミュニティをつくること
これらのことが、オープンソースの保管庫としての博物館や図書館の活動の柱となるはずだ。
(1)所蔵資料をパブリックドメイン化すること
(2)利用しやすい形で(誰でも利用可能なウェブ上の画像やテキストとして)公開すること
(3)資料の利用のためのコミュニティをつくり、専門家ではない普通の人が必要な資料にアクセスできる環境を整えること
これらのことを通じて、所蔵資料が社会で活用され、新たな価値を生みだす手助けをすることが、博物館や図書館の大切な役割になってくるのではないだろうか。
FOSS4Gとそれに関わる方々の考え方に触れてから、私はそういうことを考えるようになった。
郷土資料が本当に「オープン(公開)・ソース(資源)」となるのはもう少し先かもしれないけれど、「囲い込み」よりも「公開」の方が優れた戦略だという認識は、少しずつ世の中に広まっていくはずだ。
郷土資料を巡る状況も、いずれ変わっていくと信じている。