海を渡った南部神楽〜早池峰神楽はなぜ北海道へ渡ったのか〜 |
11月24日(土)から12月2日(日)まで厚沢部町図書館ロビーで展示中の『海を渡った南部神楽』展は、北海道新聞、函館新聞の2紙に取り上げていただき、多くの来場者の方の観覧をいただいている。
2紙とも、それぞれの記者さんの持ち味が出ているので、読み比べるとおもしろい。
11月29日付け北海道新聞
学術的価値について客観的な評価に努めた記事となっている。
情報収集に力を入れたことがわかる記事となっている。
11月29日付け函館新聞
取材当日、偶然、南部神楽の関係者の方々が観覧に来ていたため、「人」を中心に据えた記事となっている。
聞き取りを中心とした記事構成で迫力がある。
以下、展示解説では触れなかった、多少マニアックなことを書いてみたい。
「南部神楽」という呼称の問題
この神楽の名称をどう呼称するかは多少悩ましい。
ルーツは岩手県旧大迫町に伝わる早池峰神楽であり、実際の演目も早池峰神楽と大きく違ったところはなかったと思われる。
しかし、「早池峰神楽」と呼称するのはためらわれる。
民俗文化財は、地域に根ざしてこそ、その固有性があると考えられるからだ。
北海道開拓記念館の2004年の展示では、この神楽を「旧狩太神社神楽」と呼称している。
この呼称は確かに正確といえる。
北海道に渡った早池峰系の神楽が活動の舞台としていたのは狩太神社であり、「神楽聲聞記」(神楽台本)の末尾にも「狩太神社神楽」と記されているからである。
しかし、厚沢部町内でこの資料が大切に保管されてきた意義を考えると、資料名として「狩太神社神楽」は使用しにくい。
そこで、『北海道の民俗芸能』(北海道教育委員会,1998)で本資料が取り上げられた際に使用された呼称である「南部神楽講(旧狩太神社神楽)」を借用し、「南部神楽」と呼称することとした。
<2013年1月21日追記>
「南部神楽」という名称について、その後、岩手県花巻市教育委員会の中村良幸氏より以下のような指摘がありました。
指摘の通り、誤解を生む名称だったと思います。
(1)岩手県内には「早池峰神楽」の
系統とは別に「南部神楽」と呼ばれる系統がある。
(2)早池峰神楽等の影響を受けて明治以降に広まった神楽だが、道具立て等も異なっており、権現様
(獅子頭)をほとんど持っていない神楽系統で、早池峰神楽とは全く異なる神楽である。
(3)したがって、道具の名称を「南部神楽の資料」とするのには整理上問題がある。
(4)花巻市周辺では「早池峰神楽系」と名乗ることが多いので、できれば「早池峰神楽系の神楽道具」というような名称で保存されることを望む。
「
『神楽聲聞記』によると、「天明年中始、明治二十二年 免状下講社 大正三年二月四日節分始メ」との記載があり、大正三年時点で、天明年中(1781〜1789)に創始されたと伝わっていたことがわかる。
このことは、中村良幸(1991)が紹介する昭和15年刊行の外川目尋常小学校編『郷土教育資料』の記述とは若干一致しない。
『郷土教育資料』では、「今より百年前に合石部落に創められ」とあり、合石神楽については1840年前後の創始と伝えられていたようである。
合石の神楽は、その後中絶し、『郷土教育資料』によると「明治39年、内川目村大償神楽を師として復活した」とされる。
ただし、明治39年は、合石集落から南部神楽を伝えた人たちが北海道へ旅立ったと思われる年である。
このことから、門屋光昭(1993)は、明治39年再興説に疑問を唱える。
ただし、明治39年に神楽の担い手の多くが北海道に渡ったため合石集落では神楽存続の危機があったことは確かなようである。
『郷土教育資料』によると、明治39年に復興した後、「一時は衰微したるも、大正六年頃よりまた復活して現在に至る」とされている。
なお、明治39年に岩手県合石集落の人びとが北海道に渡ったのは、明治35年・38年の凶作の影響が考えられると門屋は指摘する。
北海道での神楽公演
岩手県合石集落から北海道に渡った人たちが定着したのは虻田郡狩太村で、現在のニセコ町である。
狩太村に最初から全員で移住したのかはよく分からない。
神楽道具一式が伝承されていた佐藤久八家と佐藤政蔵家が明治42年に厚沢部村大字館村字焼木尻に
移住している。
門屋は最初は狩太村に移住し、その後厚沢部村焼木尻に移転したと考えている。
狩太神社での神楽座結成は、「神楽聲聞記」に記されている大正3年と推測される。
この間、北海道に渡ったメンバーの多くは狩太村にいたようだが、厚沢部村に2家族、空知郡滝川村に1家族が居住しており、再結成時点では全員が1箇所に居住していたわけではない。
「神楽聲聞記」の末尾に記された12名の神楽仲間のうち佐藤辰蔵・新八は厚沢部村字焼木尻に居住した久八の子と孫であり、厚沢部村から遠征して狩太神社やその他の地で行われた神楽公演に加わっていたのである。
門屋によると狩太神社の最盛期は大正10年から15年頃とされる。
南部神楽資料として残される権現様の幕には、大正10年の年号や当時の演者の氏名が染め抜かれている。
道央圏を中心とした回村巡業
門屋によると山伏神楽には権現様を奉じて村々を巡る回村巡業の習慣があるという。
狩太神社を拠点とした南部神楽が回村巡業を行ったかどうかははっきりしないが、「神楽聲聞記」の末尾には、「長万部、黒松内、寿都、倶知安、小沢、岩内、余市、小樽、札幌、岩見沢、苫小牧、室蘭」の地名が記されている。
いずれも石狩・後志など狩太村を中心とした同心円に収まる町々であり、中村や門屋は、南部神楽のメンバーが回村巡業を実際に行ったと考えている。
また、資料の中に含まれる「神楽講社札」(明治22年に神宮教岩手本部発行の神楽免許状だが、大正年間にはすでに失効している)が許可書として機能したと門屋は推測する。
神楽公演の終焉
門屋は狩太神社で行われていた
神楽道具一式を所有していた故佐藤春蔵氏は生前「神楽を見たことはない」と証言しており、昭和10年頃には厚沢部村に移住した佐藤久八家は神楽から遠ざかっていたと推測される。
厚沢部村の佐藤家に神楽道具が一式が伝わったのは、昭和21年頃に狩太村から厚沢部村に佐藤村氏蔵が転居し、その際に神楽道具のうち今に伝わるいくつかを持ってきたためと考えられる。
このとき、故佐藤春蔵氏とその父の新八氏が狩太村まで村蔵氏を迎えにいったという。
厚沢部町で神楽公演が行われたかどうかは、証言によってまちまちであるが、今回の展示会場において、佐藤春蔵氏の次女に当たる高橋洋子氏が、「権現様が実際に使われたのを2度見たことがある」と証言されていた。
関係者によって証言がまちまちであるのは、兄弟の中でも自分は比較的長く実家におり、また父春蔵氏のそばに居住していた時期が長いからだろう、と高橋氏は述べていた。
ちなみに、高橋氏が権現様を見たのは昭和35年頃と昭和50年頃の2回で、昭和35年頃の分は佐藤村蔵氏が演じたという。
昭和50年頃は南館鹿子舞から頼まれて権現様を貸したとのことである。
再び海を渡った
盛岡市中心部に近い黒石野という集落には、黒石野神楽とよばれる早池峰系の神楽が伝わっていた。
言い伝えによると、この神楽は、一度途絶して、大正4年(1915)に再興したとされている。
岡田現三(2011)氏の聞き取りによると
「大正期の再興にあたった川島市助という人は北海道に行っていた時期がある。そこで大迫かどこかの人と会って習ったものを、帰ってきてから黒石野の人たちに教えたと聞いている。」
という。
黒石野神楽再興の中心となった川島市助という人物は、北海道で岩手県大迫出身の人びとと出会い神楽を習ったと伝わっているのである。
大迫は合石を含む旧大迫町のことであり、大正4年以前の時点で北海道に渡って神楽を行っていた大迫周辺の集団は、合石から北海道に渡った南部神楽を演じていた人びとではないだろうか。
この推測が正しければ、北海道に伝わった
芸能の逆輸入である。
伝統芸能は中断と再興を繰り返すものというのが常識だが、その伝播の仕方や再興の仕方には、なかなか想像が及ばないものがある、という良い事例だろう。
芸能と北海道開拓
北海道に渡った合石の神楽集団のあり方は、従来の農業開発や資源開発を求めた北海道集団移住のあり方と大きく異なるイメージをもたらす。
移住のきっかけは明治35・38年の凶作にあった可能性が高いことは事実だが、果たして農業開発を求めた北海道移住だったかどうかは疑問である。
厚沢部村字焼木尻に移住した佐藤久八家にしても、主な生業は炭焼きで、ニシン漁の出稼ぎなども行っていたようである(佐藤久八三男鶴松氏の娘近藤ミヤ氏からの聞き取り)。
中村や門屋が推測するように、神楽公演は単なる娯楽ではなく、生活手段だった可能性が高い。
岩手県を離れ、北海道へ渡ることを決めたときには、神楽公演を生計の一つとする戦略があったのではないだろうか。
7枚伝わる「神楽講社札」に記された人物と北海道で神楽を行っていた人物は全く一致しない。
一部に親子関係などがみられるが、全くの他人の講社札も含まれている。
さらに、北海道に渡った明治39年頃には、神宮教岩手本部は存在せず、講社札の効力は失われていたと考えられるが、それでもこれを所持して北海道に渡ったのは、回村巡業の免許状としての効力を期待したと考えられる。
渡道当初から回村巡業を企画していた可能性が考えられる。
佐藤春蔵氏の長男佐藤信一氏や次女の高橋洋子氏の証言では、長く神楽公演に関わってきた佐藤村蔵氏は、大工仕事の上手な人で実際に、頼まれて家を建てたこともあるという。
狩太村での村蔵氏の生業の一つとして、大工仕事があったことがわかる。
そのような村蔵氏の生業のあり方、神楽公演を生活手段としていた可能性があることなどは、北海道への開拓移民のステロタイプな見方とは合致しない。
むしろ、中世の絵巻に描かれるような、遊動する芸能民のような暮らしぶりを想像させるのである。
一口に北海道開拓といっても、様々な暮らしぶりや生業戦略があったということ、それらがステロタイプな北海道開拓のイメージに飲み込まれて忘れ去られてしまっていたことを、厚沢部町に伝わる
参考資料
岡田現三 2011「黒石野神楽」『とりら』第5号
中村良幸 1991「北海道へ渡った神楽文書−その発見の経緯と内容−」『早池峰文化』第4号
門屋光昭 1993「北海道に移住した芸能集団の消長−早池峰系合石神楽の場合−」『民俗芸能研究』第17号
北海道教育委員会 1998『北海道の民俗芸能』