館城攻防戦にみる滑腔銃とライフル銃の性能差 |
このとき、松前藩軍が使用した銃器は、火縄銃や前装式の雷管銃と考えられ、厚沢部町郷土資料館所蔵の館城出土品も全て松前藩が使用したと思われる滑腔銃である。
厚沢部町郷土資料館所蔵の火縄銃銃床
(松前家の家紋が銃把の部分にみられる)
これに対して、旧幕府軍はミニエー銃弾を発射可能なライフル銃を携行したことが知られている。
小杉雅之進の『麦叢録』では、松前藩軍の兵装を「甲冑、弓槍、ケウェール等」とし、これに対して旧幕府軍は「我兵は悉く二つ帯ミニールを携し」ていたことが、松前藩との戦争における旧幕府軍の勝因の一つとしている。
すなわち、松前藩軍は、昔ながらの装備で、銃器も滑腔銃であるゲベール銃が主体であったのに対して、旧幕府軍はライフル式のミニエー銃を装備していたことが勝敗を分けたと述べている。
(実際の文中では、その後に、旧幕府軍が戦闘経験が豊富で精強だったという文章が続くのだが)
滑腔銃とライフル銃の命中率
ところで、滑腔銃とライフル銃の性能差はどの程度であったのだろうか。
グリーナによる滑腔銃とライフル銃の発射試験によると、銃種と距離による命中率は以下のようになっている。
雷管マスケット(滑腔銃)
100ヤード 74.5%
200ヤード 42.5%
300ヤード 16.0%
400ヤード 4.5%
ミニエー銃(ライフル銃)
100ヤード 94.5%
200ヤード 80.0%
300ヤード 55.0%
400ヤード 52.5%
(1ヤードは0.9144m)
距離が開くにつれて、ライフル銃の優位性が高まっている。
400ヤードでの銃撃戦では、滑腔銃には明らかに勝ち目がない。
戊申戦争時の銃撃距離
さて、戊申戦争時の実際の銃撃距離はどの程度のであったのか。
保谷徹(2007『戊辰戦争』戦争の日本史18)の文献調査によると、「300メートル弱から500メートルくらいで撃ち合いが開始されることが多かった」とされる。
一例だけあげると、
「四00ヤードで敵の弾丸が雨より激しく、半隊旗持が打たれて死んだ。憤激して半隊が前進、三00ヤードで敵を打つが、半隊長が打たれて退く」(「権蔵覚書」保谷2007より引用)
とある。
距離400ヤード(360m)ぐらいから、味方が敵の射程内に捉えられ、標的となった隊旗持ちが銃撃を受けた。
これに対して、300ヤード(270m)ぐらいまで接近して、決戦に出ようとしたところ、隊長が敵の銃撃を受けてしまったので退却を余儀なくされた、というものである。
これをみると、視認できる限り、400ヤードは射程距離であり、300ヤードでは、敵に痛打を与えうる決戦距離になっている様子がうかがえる。
以上のことからライフル銃を使用した戦闘では、400ヤードから300ヤードを有効射程とし、300ヤード以内では、敵味方ともに常に身近に着弾するような状況であったと考えられる。
ランチェスターの法則にもとづく松前藩と旧幕府軍の戦闘シミュレーション
A0-At=E(B0-Bt)
A0はA軍の初期の兵員数
Atは時間 t におけるA軍の残存する兵員数
B0はB軍の初期の兵員数
Btは時間 t におけるB軍の残存する兵員数
Eは武器性能比(Exchange Rate)=(B軍の武器性能)÷(A軍の武器性能)
(軍の戦闘力)=(武器性能)×(兵員数)
(出典:Wikipedia)
ランチェスターの法則は、戦闘における兵力減衰のありさまを示した数理法則。
原理はものすごく簡単で、兵器の性能と兵員数分の攻撃力が相手の兵員数を削っていく、というもの。
RPGの戦闘ルーチンと基本的には変わらない。
ここでは、第1法則と呼ばれる1次式を使用する。
第2法則は、おそらく機関銃とか砲撃とか、1つの兵員が複数の敵兵員を同時攻撃可能な場合に使われるようなので、幕末の戦闘には合致しないと思われる。
実際の戦闘では、30%の兵力を失うと部隊は機能を果たさなくなり、「壊滅」状態になると言われているようなので、とりあえず、旧幕府軍が松前藩から30%の兵力を奪うのにどの程度の損害を被るか、ということを計算してみた。
初期兵力は、松前藩100、旧幕府軍200とした。
これは、館城戦争で投入されたと推定される両軍の兵力を想定。
武器性能は、ミニエー銃と雷管マスケット銃の命中率の比。
以下は、松前藩軍の兵員数が70人になる損害(初期兵力の30%)を与えたときの旧幕府軍の残存兵員数を示している。
距離100ヤード 176人
距離200ヤード 184人
距離300ヤード 191人
距離400ヤード 197人
銃撃距離が開くほど、旧幕府軍の残存兵員数は増加し、距離400ヤードでは、ほとんど無傷で松前藩軍を無力化できる計算になる。
ちなみに、距離400ヤードでは、松前藩軍が全滅するまで戦っても、旧幕府軍の損害は9人。
なぶり殺しである。
散開戦闘と密集戦闘
上記のシミュレーションはあくまでも計算上のことなので、銃器の性能だけで、旧幕府軍が圧倒的な優位を築けたわけではないだろう。
松前藩軍が壊滅するまで距離400ヤードのまま戦い続けるわけもなく、自分たちに有利な状況に持ち込もうとするはずだ。
たとえば、距離を詰めて100ヤード以内での戦闘に持ち込むとか。
旧幕府軍の有利をさらに拡大したのは、散開戦闘と組み合わせて、ライフル銃を効果的に運用していた点だと考えられる。
これに対して、松前藩軍は戦国期からの伝統的な密集隊形での集中的な鉄砲運用で対抗しようとしていた節がある。
旧幕府軍と散開戦闘
旧幕府軍は果たして散開戦闘を行っていたのだろうか。
戊辰戦争全体でどのような戦闘方法が行われていたのかは不勉強なのでわからないが、館城戦闘に先立つ11月14日の鶉村の戦闘では、松前藩軍に対して側面攻撃をかけようとした旧幕府軍がラッパ使用したこと複数の記録からわかる(『説夢録』、『麦叢録』、『北洲新話』など)。
また、これにおどろいて松前藩軍は退却したことが記されている。
松前藩側の聞き取りでも、「あのかひん(花瓶=ラッパのことと思われる)が突然なったときはとてもとても身ぶるいするほど恐ろしかった」との証言がある(厚沢部町史『櫻鳥』)。
以上のことから、旧幕府軍は、散開戦闘で必須となる散兵状態での連絡方法としてラッパを実践使用しており、それに対して、松前藩側はラッパをはじめてみたこと、すなわち散開戦闘の実際を知らなかったことがわかる。
稲倉石の戦いと散開戦闘
もう一つ、旧幕府軍の散開戦闘の運用例を確認しておく。
館城落城3日前の稲倉石の戦いにおいて旧幕府軍が散開戦闘と呼んでもよさそうな戦闘方法で松前藩陣地を攻略している。
鶉ダムが建設された現在の稲倉石戦場
稲倉石の古戦場は、現在鶉ダムが建設されており、当時の函館~江差の街道はこの谷筋を通っていたと考えられる。
この狭い谷筋に松前藩は陣地を構築し、旧幕府軍を迎え撃った。
滑腔銃の運用方法として、松前藩の判断は正しいと思われる。
狭い谷底を封鎖し、左右に展開できない敵に集中砲火を浴びせる、というのは伝統的な鉄砲運用方法だ。
しかし、旧幕府軍は左右の岩山に敵がいないことを看取し、5小隊のうち2小隊にこの岩山を制圧させ、ここから射撃を加えて松前藩軍を敗走に追い込んでいる。
松前藩としては、そのようなすばやい兵の展開など予想できないところだったのだろう。
仮に岩山を制圧されても、絶壁ともいえる岩山からは、松前藩陣地を直接制圧することは不可能であるため、旧幕府軍の主攻線たる谷底の街道さえ封殺してしまえば、守り抜けると考えていたのではないかと思う。
しかし、ライフル銃を装備する旧幕府軍の両翼から予想以上の命中弾を送り込まれたため、陣地を放棄せざるを得なかったと推測する。
旧幕府軍が展開したと思われる岩山から、松前藩軍陣地まで水平距離でおよそ150m、直線距離でも200m程度である。
滑腔銃であれば、有効弾を送り込むことは難しい距離だが、ライフル銃にとっては80%の命中弾を送り込める距離である。
銃器の性能に加えて、散開戦闘という戦闘方法が組み合わされたことにより、松前藩軍は非常に苦しい戦闘を強いられることになったと考える。
従来、松前藩の戦いぶりは、低い評価を与えられることが多かったが、それには、やはりそれなりの理由があるようだ。
松前藩といえども、松前藩なりの知識・技術の範囲で最善を尽くしていたということだろう。
装備とその運用方法の両方において、旧幕府軍のレベルが松前藩とは別次元であったともいえる。
これほどの苦しい戦闘を、なにゆえ、松前藩は藩領全土を戦場にしてまで続けなければいけなかったのか、その点に大きな疑問が残る。