江差町郷土誌講座 |
大満足です。
ヤマジュウニ関川家の歴史
講師:江差町教育委員会学芸員 宮原浩さん
江差の有力商人で、『関川家文書』で知られる関川家の歴史を解説する。
関川家は、8代目平四郎が勘定奉行兼作事方として厚沢部町の館城築城工事を取り仕切り、また、その過程を克明に日記に書き記している。
さて、宮原さんによると、関川家は初代与左衛門が延宝〜天和年間(1673〜1684)に越後関川村から松前を経て江差に住み着いたらしい。
寛文10(1670)年の津軽藩の記録によると、当時の江差は戸数も記録されていないことから、関川家は江差の「草分け」と言うべき家であったという。
関川家の家業は、時代によって様々で、酒造や林業、農業開発まで手がけたようだ。
また、松前地へ来航する人々の身元保証人として、松前藩の沖之口業務を代行することで、公務の一端も担っていたという。
「江差餅つき囃子」と「檜山南部の鹿子舞」のルーツを探る
講師:厚沢部小学校 夏原茂樹さん
講師の夏原さんは当町厚沢部町の厚沢部小学校に勤務されている方で、江差の姥神祭をはじめとする民俗芸能に造詣が深い。
現在は、各種事務連絡のため、毎日のように私の職場に顔を出していただいているので、普段から色々と教えていただいている。
まず、江差餅つき囃子について、越後の高田ごぜが唄う「佐渡おけさ」の合いの手の中に餅つき囃子の歌詞と同じ歌詞を発見したことが、今回の発表のきっかけとなったという。
そして、松前地には一定数のごぜや座頭がいたことが、文化年間頃の記録で確認できること、江差追分の開祖といわれる佐之屋市之丞が座頭であったことなどから、ごぜや座頭が松前・江差地の芸能に深く関わっていることは間違いないのではないかと推測する。
さらに、佐渡おけさにみられる歌詞の類似は、肥後を発祥とする「ハイヤ節」の中にもみられるという。
夏原さんは、佐渡に伝わったハイヤ節の旋律が佐渡おけさに取り込まれる過程で、ハイヤ節に歌詞も佐渡おけさとして伝承され、北前船の交易路に沿って蝦夷地まで到達したのではないかと推測している。
続いて、檜山南部の鹿子舞について、夏原さんはまず、鹿子舞に関する俗説を検証する。
檜山南部の鹿子舞は江差の五勝手鹿子舞をはじめとする5頭立てのものと、厚沢部川流域を中心とする3頭立てのものがあり、その違いが伝承元となった地域の違いとして、南部系・津軽系などと分類されることがある。
夏原さんは、『日本民俗芸能調査報告書集成』で東北地方の鹿子舞の形態を調べ上げ、上のような言説が俗説に過ぎないことを明らかにする。
青森県においては、現在鹿子舞が伝えられているのは津軽地方であり、南部地域は下北地方には伝承されていないという。
また、秋田県や岩手県中北部では檜山南部と同じ「幕踊り」が主体で、岩手県南部以南、宮城県では「太鼓踊り」になるという。
夏原さんは檜山南部の鹿子舞の故地について具体的にはしなかったものの、19世紀初頭には文献記録から確実に鹿子舞が行われていたこと、延宝6年(1678)の厚沢部での檜山開発の始まりと江差への檜山番所の移転を契機に南部・津軽の杣夫が檜山南部へ流入したと考えられることから、「檜山南部の鹿子舞の起源を17世紀後半から18世紀に持ってくることが可能である」と結論づけた。
時の語り部〜写真で見る昭和の江差〜
講師:松村隆さん
松村さんは旧泊村役場に勤務され、昭和30年の江差町との合併に伴い、江差に移住、これを契機にカメラ購入し、以来、江差の風景を写真に納め続けられている。
披露いただいた写真は、しょうわ30年代から40年代にかけてのもので、昔ながらの江差の町並みが残されていた最後の時期にあたる。
ご本人曰く、「冬の写真が多い」のだという。
最初は、もの珍しさが先だって写真を撮り始めたが、次第に、「江差を適確に表現する対象とは何だろうか」と考えるようになり、冬のたば風を意識して撮るようになったという。
また、そうして冬のたば風を表現しようとシャッターを切るうちに、強い風とともに暮らす人々の生活がみえてきたという。
松村さんは、写真を撮るということは率直に言えばただの道楽だが、その道楽を続けていくうちに、江差という町の本質が見えてきたという。
そして、それは、例えば江差追分が一方では道楽でありながら、江差という地域の本質と結びついた文化となっていることとも似ているのではないか、と述べられた。