トムラウシ山遭難考 |
2009年7月16日に、悪天候に見舞われた大雪山系トムラウシ山で、ツアーガイドを含む登山者9名が低体温症で死亡した事故である。
事故の経緯などについてはウィキペディア「トムラウシ山遭難事故」参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B7%E5%B1%B1%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E6%95%85
色々な事故の原因が言われているし、そのすべてにはとても目を通せないけれど、(1)トムラウシに登る力のない人たちが、(2)悪いことに集団で、(3)さらに悪いことに悪天候に見舞われた、ということだと思う。
問題の根底は「トムラウシに登る力のない人」が登ってしまったことで、「登る力がない」からこそ、「集団」(ツアー)になったと考えれば、(2)の原因は(1)といえる。
悪天候に遭遇したのは、ある意味運が悪かったともいえる(遭遇後の判断は別だろうが)。
『財界さっぽろ』9月号では、生還者からの聞き取りとして以下のような内容を掲載した。
広島市から参加した生還者の一人は、事故再発を防ぐために以下のような措置を関係機関に望む、と述べている。
(1)避難小屋の増設と改修
避難小屋が古く、当日も雨漏りがして充分な休息がとれなかった。
避難小屋の数が少なく、ひさご沼の避難小屋からトムラウシの登山口まで10時間の行程は長すぎる。
(2)標識の数が足りない
前トム平から登山口まで標識が2カ所しかない。
(3)トイレブースの設置・増設
携帯用簡易トイレを使用するためのトイレブースを増設することにより、山を汚さず、いざというときには避難場所としても使用できる。
以上。
私が先に「トムラウシに登る力のない人」と断じたのは、この記事を目にしたからだ。
すでに指摘されていると思うのだが、(1)の避難小屋については、あくまでも「避難」であって、避難小屋泊を前提とした山行などあってはならないこと。
大雪山系はテント泊が常識で、1~2名の小パーティならいざしらず、18名もの大パーティが避難小屋泊を前提とした山行を行うなどとは、他人の命まで危険にさらしかねない。
生還者は、避難小屋の数が少なく行程が長すぎると言うが、避難小屋泊を前提とすることそのものが論外だ。
余裕が欲しければ、南沼のテント場で一泊すれば良いのだ。
そのような登山計画を立てることも登山技術の一つと思うのだが、この生還者の発言からは、そのような意識はみえてこない。
(2)の標識の数についても、森林限界を超える大雪山系では、森の中の一本道を歩くのとは異なり、広い尾根上で多数の踏み跡やまぎらわしい水跡の中から読図によって正しいルートを選択しながら登ることとなる。
標識を頼りに登山するのは自殺行為といえる。
大雪山系は、いったん上がってしまえばまるでバックカントリーのような広い岩場、砂地、ハイマツ群落の中を歩くことになる。
標識を頼りに登るつもりなら、標識はいくつあっても足りなくなってしまう。
そもそも、読図能力と登山能力はほとんどイコールと考えてもよいものだ。
たとえば私のようなレベルなら、悪天候で視界が200mを切ってしまえば正確な読図はできなくなり、かなり危険な登山を強いられることとなる。
したがって、通常、視界200mを切った時点で私のようなレベルの初心者は山行を断念するという選択をすることとなる。
その選択ができるのも、読図が重要な登山能力であると認識していればこそなのだ。
読図に頼らない登山は、自分の限界を超えた領域に簡単に踏み込んでしまう危険性をはらんでいる。
今回の遭難事故の参加者の少なくとも一人は、「心構え」のレベルでトムラウシに登るためのハードルをクリアできていないことが『財界さっぽろ』の記事からよく分かる。
残念だと思うことは、このレベルの登山者の意見が通った形で避難小屋の増設等の措置が検討されていることである。
(以下引用)
環境省に避難小屋設置を要望 トムラウシ山遭難事故受け 新得町 (09/14 22:34)
【新得】十勝管内新得町の浜田正利町長は14日の町議会で、大雪山系トムラウシ山(2141メートル)に新たな避難小屋を設置するよう、町が環境省に要望したことを明らかにした。
町が環境省に提出した整備提案書によると、現在はトムラウシ山山頂から新得側登山口の間に風雨をしのげる避難所がないが、遭難防止のために、新たに20人程度が利用できる避難小屋とトイレの設置などが必要だとしている。<北海道新聞9月15日朝刊掲載>
(引用ここまで 引用元:http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/188799.html)
地元自治体の要望はやむを得ないともいえる。
しかし、登山者が避難小屋設置を望むのは繰り返すが論外だ。
登山は与えられた条件と自分の力量とを天秤にかけて技術・知力・体力を試すゲームだ。
所詮遊びである以上、与えられた条件で勝負することが前提であるはずだ。
自らの技術・体力・知力が劣ることを棚に上げて、ゲームの前提そのものに手をつけようと考えるのは、自分の行為に対してあまりにも無責任ではないのか。
忘れられているようだが、避難小屋や標識の増設は、大雪山国立公園の自然破壊を伴うのだから。