松前徳広一行の館城入城ルート |
私自身、きちんと調べた事はないので、手近にある町史および関係の記録で簡単に回答した。
ちょっと調べただけなのではっきりしたことは言えないが、
(1)福山(松前)から厚沢部までの藩主一行の足取りがきわめて不明瞭
(2)厚沢部〜館城入城〜熊石脱出の経路、日程は比較的特定可能
という感じ。
あくまでも想像にすぎないが、福山〜江差近在までは隠密行動が取られ、厚沢部川流域に入ってからは、危険が少ないと判断され、比較的堂々と通過したのだろうか。
厚沢部川流域の集落には徳広通過を伝える伝承が残されており、少なくとも厚沢部周辺で隠密行動を取っていなかったように思える。
以下、その回答内容。
1.松前~館
藩主一行がどのようなルートで館城に入ったのかははっきりしていない。
また、福山の出立日時、館城への到着日時についても諸説ある。
元松前藩士らが執筆した『報功心血』によると10月28日に福山城跡出立、11月3日に館城着となっている。随行者は70名とされている。
『厚沢部町史櫻鳥第1巻』では、10月18日付け下国安藝、尾見雄三宛の文書を引用し(出典不明)、に「御湯治」の名目で徳広が福山を近日中に出立する予定であったとする。
さらに同書では『伊達林右衛門店行司御用留』を引用し、10月28日の出立予定とされていることを示している。
『藤枝家文書、慶応四戊辰年十月 下蝦夷地モロランと云ふ処に賊軍乗来事』には、江差へ11月5日に「殿様始め御家中一同御供にて罷越」したとする記録がみえることから、11月3日の藩主一行の館城入りとする記録類とは矛盾する。
藩主一行の館城入りの行程については記録類が少なく、通過ルートも判明していない。
冬季の移動であることから、福山から陸路にて上ノ国、江差の海沿いを通行したと考えられるが、『厚沢部町史櫻鳥第1巻』では「殿様は船で江差においでになって」との証言が引用されている。
また、同書では「殿様が俄虫の渡場をわたって、かごで太鼓山を登っていくのを見ました」との証言を伝えており、このルートを通過したとすれば、太鼓山の尾根沿いを鶉村まで移動し、そこから鶉越を通過して館村へ入ったと考えられる。
2.館~熊石
『小林甚兵衛戦争書上』(厚沢部町史櫻鳥第1巻)は、11月12日に藩主一行が江差へ出立したとする。
同じく『櫻鳥』では当路の角田角次郎の証言を引用し、藩主一行が当路を通過したことが示される。
また、富栄の巌せつの証言から、11月12日の夕刻に、藩主一行が富栄に到着したとする。
さらに、同夜江差へ向かおうとした藩主一行は、田沢野に到達したところで、進路を変え熊石に向かったとする。
『報功心血』によると館城脱出後の「江差の北端なる泊村」で徳広が「南遷の議を否定」したとあり、藩主一港が泊村まで到達の上、軍議を行った様子が描かれる。
『乙部村郷土誌』によると11月14日、鯎川に宿泊し、翌15日に乙部に入ったとされる。
『熊石町史』によると藩主の熊石入りは11月17日とされ、18日には関内に宿泊したとされる。
すなわち、館城脱出後、当路、富栄を通過し、いったん江差町北部に滞在した後、鯎川を経て熊石へ移動したと考えられる。
『北門史綱九』によると、藩主一行は関内にて渡航用の船を調達し、藩主以下随行員71名が乗船し、11月19日夜に出航したとされる。
同船は11月21日夜に津軽平舘村(現東津軽郡外ヶ浜町)に到着した。
船中では先代藩主崇広5女鋭姫が「船酔い」のため死亡し、館城脱出以来衰弱が激しかった藩主徳広も、11月29日弘前にて死亡した。