廣瀬隆人「これからの社会教育に求められること〜青年教育の再生〜」 |
写真左は、山形県南陽市で独自の青年教育を実施している島貫さん
島貫さんの事例報告も面白かったのだけれど、今回は割愛。
雄武高校時代は埋蔵文化財を活用した高校授業の研究や発掘調査の誘致などを行っていて、北海道内の埋蔵文化財関係者や博物館関係者にやたらと詳しい。
道教委時代には、北海道埋蔵文化財センターのかつての私の上司の方々と机をならべて仕事をしていたようで、前夜の懇親会で身内ネタに花が咲いた。
社会教育は、地域課題に向き合わなければならない
私自身は、現在の社会教育は地域課題に向き合っていると思えず、社会教育行政という分野に懐疑的なのだが、廣瀬先生は、現実の課題を解決するために社会教育が必要なのだと主張する。
OECDの事務局長が来日し、労働者人口が減少傾向にある日本において、外国人労働者の安易な導入ではなく、女性の社会進出を進めるべきとの見解を示したという。
その上で廣瀬さんは、大人の学習や教育の最大の目的は職業訓練であるという。
社会教育において学習活動の成果はボランティアや市民活動によって社会に還元されると捉えられがちだが、ボランティアは新たな低賃金労働を生みだす危険があるという。
ボランティアを否定しないが、社会教育の最大のターゲットが成人層であるなら、教育の最大のニーズは職業訓練になるのは確かだろう、と広瀬さんは言う。
住民が学び合う社会教育
社会教育の理想的な姿は、近所の奥さんたちが集まって料理を教え合うような姿だという。
本人たちはそれを社会教育とは思っていないけれど、生活のニーズがあってその課題を解決するために教え合う、ということが社会教育の原点だという。
近年、「学習成果の活用」が声高に叫ばれるが、学習機会の社会的な還元は短絡的思考に過ぎないという。
学習行為が先にあって、学習行為の結果として社会活動がある、という考え方自体がおかしいのだという。
本来は社会活動の結果、課題が生まれ、その解決のために学習行為があるのだという。
確かに、興味・関心・必要性のような学習の動機は生活や社会活動が先にあって生じるものだろう。
行政の言う「学習成果の活用」は順序が全く逆なのだという。
行政のいう「学習成果の活用」は、むしろボランティアという名のただ働きを増やすだけという危険があるのだという。
社会教育を担当する部署をあえて設ける必要があるのだろうか
ここからは、講義を聴いた私の考え。
社会教育という理念は必要だと思う。
様々な活動には学習行為が必要だ。
何も学ばずにうまくいくことの方が世の中には少ないだろう。
そのための学習機会を行政が提供することも必要だと思う。
「行政が行う社会教育」は必要だ。
しかし、あえて社会教育を担当する部署を行政内に設ける必要があるのだろうか?
現在の地域課題はいずれも専門的な知識や経験が必要だ。
というより、課題というものは必要な知識や経験が欠けているからこそ課題となっているのであって、誰でも解決できるなら、それは課題ではないだろう。
社会に存在するあらゆる課題に対して社会教育担当部署が適切な学習を提供できるとは、とうてい思えない。
課題に対して適切な学習プログラムを提供するためにはかなり高度な専門知識が必要だ。
講師の選定一つとっても、専門外の分野の講師選定は非常に難しい。
社会教育の担当者が全ての分野を網羅して専門性を身につけることは現実的には不可能だ。
社会教育には現場がない
学習課題は現場の切実な要求から生まれる。
必要な作業がうまくいかない、やりたいことが思うように進まないからこそ人は学習する。
たとえば耕作放棄地をどのように整理していくのか、という課題を切実に抱えているのは、耕作地周辺の地権者や農地担当の行政職員、JAの担当者だろう。
そのために先進事例を調べたり、住民向けの学習会を開くという学習行為が生まれる。
学習は、切実な問題の解決として行われる。
しかし、社会教育には切実な課題を抱えるような現場がない。
廣瀬さんがいうように、学習行為だけが現実と離れて存在することはありえない。
だが、そのあり得ない状況が「社会教育行政」という行政部署の存在だ。
切実な現場を持たず、学習のための学習を繰り返してきた社会教育が衰退するのは当然だと思う。
この現状をなんとかしない限り、社会教育は限りなく衰退していくだろう。