村上龍『櫻の木の下には瓦礫が埋まっている』KKベストセラーズ |
「櫻の木の下には」というフレーズの原典は梶井基次郎の散文詩のタイトルらしい。
梶井の原文は、櫻の木が自分に与えるたまらない不安を、櫻の木の下には屍体が埋まっているのだと想像することによって、櫻を穏やかな気持ちで観ることができるようになった、というものだ。
梶井基次郎「櫻の木の下には」(青空文庫)
村上は、梶井の想像を「妄想に近い「負の想像力」」という。
「負の想像力」とは、「ものごとがすべてそんなにきれいでまともであるわけがない」というネガティブな想像力だ。
村上は、東日本大震災で日本中が共有した「絆」=「被災地、被災者のことを忘れないようにしよう、彼らのために何かできることがあるはずだという思い」に、自身も不安を覚えるという「櫻の木」を見出す。
「被災地、被災者を思う気持ちだけでは解決できない問題が山積みしていて、「絆」という美しい言葉が、そのことを隠蔽する危険性があるからだ」という。
その象徴が「瓦礫」なのだという。
約3500万トンという巨大な量の瓦礫の県外処理が問題になっている。
瓦礫を受け入れると表明した自治体は徐々に増えているようだが、いまだ反対する住民も多い。
震災瓦礫の広域処理の問題が地域を二分するような議論、しかも感情的な議論になるのは、がれきの広域処理に一方では「櫻の木」をみる人がいて、もう一方では「屍体」をみる人がいるからだろう。
「櫻の木」の下に「屍体」を思い浮かべてしまう「負の想像力」は、危険察知をするために人間にセットされた本能に近いものだと思う。
「負の想像力」はネガティブな想像力で、精神的なバランスという意味ではあまり好ましいものではないと村上はいう。
それはわかっているのだが、人間の生存本能に埋め込まれた「負の想像力」を振りほどくことは難しい。
「櫻の木」と「屍体」は精神のバランスと生存本能との葛藤なのだろう。
震災瓦礫の広域処理の問題は、だから、こじれる。
私たちは「櫻の木」と「屍体」を適当なバランスで心の中に持って生きていくよりしかたない。
梶井は、『櫻の木の下には』を以下のように結んでいる。
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。