松下圭一2003『新版 社会教育の終焉』公人の友社 |
1986年に出版され、社会教育関係者に大きな衝撃を与えた著作の復刊。
市民文化活動が活発になれば社会教育という概念は不要になる、というのが本書の主張だ。
成熟した市民は国民主権の主体
そもそも、成熟した市民は国民主権の主体であって、主権者の信託を受けて行政を執行しているにすぎない政府や自治体に、主権者たる市民が「オシエ・ソダテル」対象とされるのは、論理的に破綻している、というのが筆者の論理である。
「国民の市民としての未熟を前提としてのみ、社会教育行政ないしその理論が成立しうる」という。
近代日本の「教育」概念
近代日本における「教育」概念には、「明治に定型化された教育発想が伏在している」という。
筆者によれば、近代に成立した「大日本帝国」は「半鎖国空間」であり、「この大日本帝国という半鎖国空間を埋めたのが<天皇>ないし<国体>の観念であり、その定着手法が<教育>であった」という。
近代国家日本の教育は、そうした性格上、「「学校」のみでおこなわれたのではなく」、「「いつでも」「どこでも」、つまり国の全域で教育が強調された」という。
このような教育発想は
(1)官治性(行政主導による教育)
(2)無謬性(無謬の原典[勅語、国定・検定教科書]による教育)
(3)包括性(全国民の全生活をおおう教育)
という構造特性をもつという。
そして、そのような大日本帝国の教育発想とその構造は、敗戦後の「教育基本法」にも受け継がれており、官治性、無謬性、包括性という特性をもつ「教育基本法」は、「教育勅語」の代替であると筆者は断言する。
市民文化活動の広がりと「農村型社会教育」の限界
社会教育の拠点となるべき施設である「公民館」は、その性格上、「青年学校の運営と不離一体の関係に於て為さるべきもの」とされ(文部次官通牒1946.7.6)、「都市ではなく、それも戦後町村合併以前の、町村の「ムラ自治」を原型とし、青年学校の戦後処理ともからませるという文部省系の官治行政とむすびついて発足した」という。
そのような「農村型」の社会を前提とした社会教育行政は、「都市型」の社会の市民文化活動の広がりと深さに対応することはおよそ不可能だろう、と私も思う。
社会教育行政が担当する課題は、現在、首長部局で複数の部局が分担している複雑な政策課題であり、社会教育行政職員がこれらの個別の問題に関わろうとすれば、必然的に広く浅い実践となり、現実の政策課題に対してほとんど意味を持たない。
自治体が総合能力をかけて取り組む課題を社会教育行政1部局で対応可能、と主張するのは、筆者の言うように、明らかに現実的ではない。
また、行政が住民を「教育」できるのは、行政(職員)と住民との間に圧倒的な教養格差があればこそであり、そのような時代は、過去のものとなっている。
「市民の未熟」の終焉と社会教育行政の終焉
無限に広がりうる可能性を秘めた市民文化活動に対して、社会教育行政がそのすべてに対応することは不可能であるにも関わらず、「社会教育」という領域に市民文化活動を包括しようという「教育概念の無限肥大」が起こっていると、筆者はいう。
筆者は、「社会教育」が必要だという意見は、「市民の<実際>の未熟」を根拠とするしかないだろうが、そうなれば、「市民文化活動の自立」によって、「社会教育行政の終焉となる事態の再確認とならざるを得ない」という。
それは、「終焉のテンポの測定をめぐる対立」にすぎない、とも。
文化戦略としてのシビル・ミニマム整備
筆者は、もはや「行政が市民を教育ないし指導・援助するのではなく、市民が行政ないし制度・政策を革新するという逆転の関係がここにおこる」という。
その上で、行政が行うべきことは、文化戦略としての「シビル・ミニマム」の整備だという。
自治体は「市民文化活動ないし市民文化の「条件整備」をおこなえばよい」のであり、そのような「シビル・ミニマム以上をおこなってはいけない」という。
「教化」や「教育」の発想から解放され、ミニマム以上は市民の自由の領域とすべきだと筆者はいう。
そして、教育委員会の所管は、高校までの学校を中心とする基礎教育に限定すべきだという。
博物館や図書館、文化財などは、現行どおり、教育委員会内部に残す方式、教育委員会とは別の行政委員会(「文化整備委員会」)、首長部局の「文化室」に所属する3方式が考えられるとし、「市民参加方式をいかし、機動的に活動できる」方式を選択するべきだという。
一時は禁書扱いにも
行政による市民への教育=社会教育行政を否定した点で、この本が出版当時、社会教育業界に大きな衝撃を与え、禁書扱いされた、というのもわかる気がする。
一方、私のように、社会教育部局に身を置きながら、史跡整備や博物館活動の一環として、個別目的的に学習会や講座を行ってきた立場からすれば、筆者の見解は納得できるところが多い。
「何か変だけど、こんなものかな?」と思っていたことを考える筋道を示してくれた一冊。