梅棹忠夫『知的生産の技術』(2) |
◎偉大な研究者の読書量
莫大な業績を残した著者はさぞかし大量の読書をしているのかと思いきや、
「一年間に読書カードは100枚とはたまらない。平均して、週二冊までゆかないのである。おおい月で10冊、すくない月で三冊くらいしかゆかない。」
のだそうである。
「年100冊というのは、ふつうの人間としては限度ではないだろうか」
とも言っている。
年100冊という読書量は、一般の感覚で「少ない」ということはないだろうが、梅棹忠夫という人物の読書量としては驚くべき少なさだ。
私だって学生時代から今日まで読んだ本を平均するとそのぐらいにはなるのではないか、と思うのだが、。
ということは、知の獲得は、読書量だけでは決まらないのだ。
私と梅棹の間にある違いは何だろう?
梅棹の読書ノートの付け方にその秘密が明かされている。
ちなみに私は、読書ノートなどほとんどつけたことがない。
読みっぱなしである。
◎梅棹が読書ノートに記載する内容
「その本を理解するうえで、カギになるようなところか、あるいは、著者のかんがえがはっきりあらわれているところ」
を読書ノートに記載するのではない。
そのように、著者の構成した文脈をたどってノートに書き写すのは、
「むだなこと」
であり、
「必要なら、その本をもういっぺんみたらいい」
と梅棹は言う。
ノートに書き写すのは、
「その書物の本筋とはほとんど関係ないような、場合によっては、著者が気がつかずに書いていることがらで、ひじょうにおもしろくおもった」
ことがらである。
なぜなら、それは
「シリメツレツであって、しかも、瞬間的なひらめきである。これは、すかさずキャッチして、しっかり定着しておかなければならない」
からである。
「読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ」
とも言っている。
◎思考を開発する読書技術
梅棹の読書技術の根幹は
(1)著者の思想を正確に理解する
それによって
(2)自分の思想を開発し、育成する
ことだ。
「著者の思想を正確に理解する」というの大切な技術だが、世の中には、平易な文章で書かれた名著がたくさんある。
高度な読解能力がなくても、知識が乏しくても、著者の思想を正確に理解することが可能な場合も多いのだ。
問題はその先にあって、1度の読書でどれだけ「自分の思想を開発し、育成できるか」が、知的生産の道具としての読書技術として大切になってくるのだろう。
読書も一期一会で。
読みっぱなしと丸暗記はだめだよ、という教えだと思う。