久繁哲之助『地域再生の罠-なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』ちくま新書 |
本書は、なぜ地域再生はうまくいかないのか、を数多くの事例をあげて解説する。
分析対象はもっぱら中小都市だが、農山漁村に当てはめて考えても通用する内容が多い。
本書の構成は以下のとおり。
第1章 大型商業施設への依存が地方を衰退させる
第2章 成功事例の安易な模倣が地方を衰退させる
第3章 間違いだらけの「前提」が地方を衰退させる
第4章 間違いだらけの「地方自治と土建工学」が地方を衰退させる
第5章 「地域再生の罠」を解き明かす
第6章 市民と地域が豊かになる「7つのビジョン」
第7章 食のB級グルメ化・ブランド化をスローフードに進化させる
第8章 街中の低未利用地に交流を促すスポーツクラブを創る
第9章 公的支援は交流を促す公益空間に集中する
筆者は、日本各地で行われている地域再生の取り組みについて、「間違いだらけの「前提」」と「成功事例の安易な模倣」とが、かえって地方を衰退させるという。
「間違いだらけの「前提」」とは、たとえば地域食材を活用した「食のブランド化」は地域再生の常套手段化しているが、「飲食店がブランド化されると、敷居と価格の両方が高くなって、日常的には利用しにくくなる」ことは明らかで、「食などをブランド化すれば地域を再生できる」というのは過去の前提であるという。
仮にブランド化に成功したとしても、小樽3点セット(運河、ガラス、寿司屋)に代表されるような特定業者だけが経済的な利益を得ることとなり、地域再生にはほど遠い現状がある。
また、地域再生の関係者の多くは50~70代の男性であり、女性や若者の意見が取り入れられることはほとんどない。
その結果、「おやじの論理」による間違った前提と責任転嫁によって、効果どころかむしろ弊害さえ生じるような事業が「地域再生」事業として行われることとなる。
筆者はこのような論理を「提供者視線」と位置づけ、誤った前提で地域再生が進められる元凶と考える。
そのような「提供者視線」の最たるものとして、筆者は「土建工学者」の進める地域再生の事例を挙げる。
コンパクトシティを推進し、街中に住民を集中させる政策を提案する土建工学者自身が、自ら提唱するコンパクトシティを魅力ある空間ととらえていない、という。
土建工学者が選ぶ「住みよい町」の選定基準は、
・北海道、東北、日本海側を除外
・一定の人口規模を持つ都市
・名古屋周辺ならぎりぎりOKか
・東京都区部ではなく、郊外の方がよい
となっており、「土建工学者の多くが自らは大都市の郊外で快適に暮らしていることがうかがえる」とし、「コンパクトシティが実は、居住者にとって魅力のない施策であることを、土建工学者が自らのライフスタイルで示している」という。
(東北、北海道、裏日本というだけで「住みよい町」ではない、というのがすごい!!)
筆者によると、日本の地域再生は、実はこのような一方的な提供者視線で行われてきており、それに対して、西欧では「「市民の心、ライフスタイルが先に尊重」されて、それに合うように都市という器や制度は「後を追うように」つくられている」という。
日本の各地で行われている地域再生は、「西欧とは地域づくりの視点が逆」で、「先に欧米の器や制度を「技術的・表面的」にみて、その技術・表面を日本にそのまま持ち込んで、それに「市民が合わせることを強要」され」る、と筆者はいう。
その結果、「街中には、市民が「余計なお金と気を使わない居場所」は少ないし、街路の位置づけは「車優先」で、人が座って休むことも交流することもままならない」そのような街ばかりがつくられ続けているという。
土建工学者の手が入るほど住みにくい街になるというのは同感できる。
私が住んでいるのは人口5000人弱の小さな町だが、町の末端まで驚くほど舗装化が進んでいる。
広々とした道路が町中に巡らされたおかげで、住宅から一歩出ると子どもが安心して遊べるような場所は皆無といってよい。
札幌などの都市部の方が、家の前でサッカーをするぐらいの余裕があって住みやすい。
厚沢部町では、道路網が整理されすぎた結果、買い物客が近隣都市部(函館市、北斗市)へ流れてしまい、地元商店街が衰退する「ストロー現象」に悩まされる、などの問題も生じている。