道具と暮らしの江戸時代 |
日常生活に用いられる、そして、現代の我々の生活にも欠かせない家財道具の消長からみた、江戸時代考。
筆者は「江戸時代に出現した家具の中で、江戸時代という時代と社会をもっともよくあらわすものは箪笥である」とする。
寛文元年(1661)に発生した実際の事件を元に井原西鶴と近松門左衛門が脚本を書いたのが、『好色五人女』の「姿姫路清十郎物語」(1686年成立)と『お夏清十郎五十年忌歌念仏』(1709年初演)である。
キーとなる小道具が西鶴では車長持、近松ではタンスに変わっていることから、「庶民の収納家具が車長持からタンスへ変わった」時期を「17世紀末から18世紀初めにかけて」と推測している。
筆者は、そもそも車長持の出現もきわめて近世的な現象と考える。
「16 世紀末頃からの生産力の上昇によって、衣類をはじめとする人々の持ち物がふえ、それまでのような小さな櫃や葛籠では入りきれなくなったことと、年が発展し、商工業が活発になり始めて、増えてきた商品類を入れておくための倉庫の需要が起こってきた結果生まれたもの」という。
さらに、当時の建物は、「バラック程度」と考えられ、「土蔵と物置もなく」、「戸締まりも不完全で火にも弱い建物」だったため、「頑丈で、鍵がかかり、その上いざとなったら引き出せる」車長持が必要とされたという。
そのような車長持ちも、17世紀末には「時代はさらに進んで、もはや車長持では対応しきれなくなっ」たことから、タンスが生まれたと筆者は考える。
タンスの誕生した17世紀末から18世紀初めの時期を、筆者は、「社会構造そのものの変質があり」、「中世社会から近世社会へと転換を遂げた」と評価する。
なぜか。「長持は箱で箪笥は抽斗」と筆者は言う。
そしてこの違いは、「収納に対する原理が基本的にちがって」おり、「コペルニクス的転換といってよいほどのことだった」と断言する。
さらに筆者は、タンスの生産体制を維持するための社会的要件がこの時代に整ったと考える。
タンスを造るためには、「箱とは比較にならない」ほどの「大量の板をひつようと」し、さらに「厚さ、大きさの揃った規格材が必要」となる。
そのためには、「山元での伐採から始まって、運搬、製材、販売にいたるすべての体制と機構が整備されてなくてはならない」という。
室町時代末期に製作された『洛中洛外図屏風』には杣人たちが直接材木をかついで小売りをしている風景が描かれる。
非常に非効率的であり、材の規格性にも乏しいことが容易に想像できる。
これに対して、葛飾北斎の『富岳三十六景』には、大量の規格材が林立する材木屋の様子が描かれる。
タンスの生産と流通を可能にしたのは、上記2葉の絵画資料が示すような、生産と流通の大幅な転換であった。
そのような社会体制の大転換が江戸時代に起こり、その時期は「17世紀半ば過ぎであった」と筆者はいう。
そして、この時期が「近世という社会が完成した」時期であり、「箪笥は近世社会のシンボル」と評価する。
本書では、タンスの他にも「桶」や「まな箸」、「仏壇」などの消長と成立を通して江戸時代という社会を分析している。
江戸時代の道具は「大部分が商品として生み出され」たことが「大きな特徴であってこのため道具の発展が産業や経済の発展をうながし、それらの構造を変え、やがては社会そのものを根底から動かしていった」という。
「道具やモノを欲し、道具やモノに関心を持つようになった」という点で江戸時代は「昭和30年代、40年代のころに似ている」と筆者はいう。
「モノを欲する」欲望が社会を根底から動かす原動力となっている社会というのは、昭和30年代、40年代に限らず、まさに現代社会そのものである。
そして、江戸時代中期に成立した「モノを欲する欲望」を発展基盤とするような社会が限界を迎えつつあるということも今や明らかである。
「モノを欲する欲望」を発展基盤とするような社会の限界を乗り越えたときこそが、日本社会が新たなステージに突入した時代の転換点だったと、後世の歴史家に評価される日が来るのではあるまいか。